初めて身内を亡くした時の感情が興味深かったので書き連ねてみる(前編)

体験談

 2019年5月に、祖母が病気で亡くなりました。

 幸か不幸か、死に目には会えませんでした。

 生まれて初めて人の死というものに直面し、それなりにショックでしたが、一方で色々な感情に出会うことができました。

 一言で言うと、哀しい以外の感情も持つんだな、と思いました。その感情を体験できたことは、物書きの端くれとしては非常に貴重な体験だったと思っています。

 今回は祖母を亡くして思ったこと、亡くした後に思ったことなんかを、覚書として書き連ねていきます。時系列順に書くので、長くなると思います。ですので、前後編に分けたいと思います。

 もし、身内を亡くした人の感情の一端を知ってみたい、という方がいれば、参考になる部分もあるかと思いますので、お付き合いください。

癌が2つ以上あった

 まず、祖母についてちょっと書いておきます。

 祖母は私の実家の近くで、小さな農家を営んでいました。歳をとって思うように動けなくなってからは父親が農作業を手伝いに行っていましたが、頑固で他の意見を受け入れようとしない祖母とは仲が良くなく、時折愚痴を漏らしていました。
 また、祖母と父親は私が生まれる前から確執があるようで、元々仲は良くなかったのです。

 そんな祖母ですが、2019年の4月ごろから脚がむくむようになり、歩行が難しくなっていました。病院で検査すると腹水が溜まっていたようで、それが脚の方まで行っていたようです。

 腹水を抜くと症状は良くなりましたが、次第にむくむ頻度が増え、近くの県立病院に入院することになりました。

 この時の検査で、腫瘍マーカーに2つ以上引っかかっていたようです。

 その後、医大に転院することが決まりました。県立病院のほうでは治療が困難だったそうです。

 ところが医大に数日入院した後、元の県立病院に再度転院することが決まりました。残された道は緩和ケアしかないと判断された結果でした。

 その時私は医大から遠くない位置にある大学におり、祖母の主治医の話を聞きに来ていた家族が、帰り際に私の大学に寄って、直接話をしました。

 「緩和ケアだって」「そう、なんだ」

 言葉だけは聞いたことがあっても、身近なところで意味を持った言葉として聞くとは、正直あまり考えていませんでした。もう助からない、と端的に言われたようなものです。

 私も祖母とはあまり仲が良くなかったので、大きなショックを受けることはありませんでした。多分、まだ実感が湧いていなかったんだと思います。その日は、木曜日でした。

 翌日の金曜日、夕方の講義を受けるために大学に行っていた私の携帯電話に、父親から連絡が入りました。どうにも祖母の容体が良くないらしく、土曜日に医大に来て欲しいと、主治医から連絡を受けたというのです。しかし土曜日には私の妹の部活があります。ようは、送り迎え要員で帰って来れないか、ということでした。

 緩和ケアの話を聞いた次の日です。私は父の頼みを受け入れ、友人に講義を聞いておいてくれるよう頼み、急いで実家へと帰りました。

 翌日、両親は医大で主治医から、県立病院への転院はせず、医大での入院を継続する旨の話を聞いてきました。転院すら難しいような状態になっていたようです。

車内で延命治療中止が決定

 日曜日。家族と祖父が揃ったことで、医大に入院している祖母の元へお見舞いに行くことになりました。高速道路へ向かう途中、午前9時過ぎでした。

 母の元へ、医大から連絡が来ました。内容までは聞こえませんでしたが、母が受け答えする内容から、祖母の呼吸が停止し、蘇生措置を施しているけれどどうするか、というものであることが分かりました。

 母はしばし黙考した後、処置を止めるように頼みました。しばしと言っても、聞いている側からしてみれば一瞬のようにも思えました。

 この瞬間、祖母は亡くなりました。

 祖母は入院中ひどく咳き込み、固形物が食べられない状態になっていました。よく吐いてもいました。腹水が臓器を圧迫していたようです。体力も衰え、例え一時的に蘇生したとしても、死ぬまで苦しむだけだと判断したようです。

 お見舞いに行くつもりが、一本の電話でそうでなくなってしまいました。同乗していた祖父は、状況が理解できていないようでした。

 不思議と私の胸中は落ち着いていました。私も状況が理解できていなかったのかも知れません。ただ、もうどんなに願っても言葉を交わすことは出来ないということと、これから忙しくなるということは、何となく分かりました。

道中、妹は不安そうにずっと私の手を握っていました。

人生で初めて遺体を見る

 医大で通された病室には、祖母が寝かされていました。開けたドアの隙間から祖母の顔が見えた時、心臓が大きく跳ね上がるような感じがして、目の前の光景が現実であることを受け入れました。

 まるで、眠っているかのようでした。ただ少し血の気が無く、顔は青白く見えました。それでもちょっと声を掛ければ起きるのではないか、そんな風にも思えました。妹は声も出さず泣き、私の腕に抱きついてきました。

 祖父が祖母に、方言で、「おい、起きろ」と言いました。「起きないよ。死んだんだよ」という母の目は赤く、涙が溜まっていました。看護師として働き、多くの患者さんを看取ってきた母が祖母の死に何を思ったのかは分かりません。母も祖母とは良い関係ではありませんでした。それでも、泣いていました。

 その部屋で看護師さんや主治医から簡単な経緯の説明を受け、死亡宣告となりました。医療ドラマなんかで見るのと、同じ光景です。諸々の確認を終え、主治医が死亡時刻を口にした時でした。

 病室に大きな、長い音が響きました。一瞬脳が思考を拒みましたが、すぐに音の正体と出所に察しが付きました。

 祖父が、長大な放屁をしたのです。

 信じられないくらいの音量と長さに驚くと同時に、私は顔を逸らしました。

 笑いが堪えられませんでした。

 死亡宣告の最中です。仲が悪かったとはいえ、祖母が死んだんです。でもそんな中でも、私は笑ってしまいました。

 その瞬間、人が死んだ場でも笑えるんだな、と思いました。もちろん全ての場でそういうわけではないでしょう。でも、少なくともあの場では堪えられませんでした。それが現実でした。

 その後、別室で詳しい経緯の説明を受け、病室の片付けをし、私と父、妹は私のアパートにスーツを取りに、いったん病室を出て車を走らせました。車内では父も妹も、思い出し笑いをしていました。

 現実は小説より奇なり、と言いますが、まさしくそうだったと思います。今思えば、だいぶ不謹慎だったと思います。それでも、笑ってしまいました。今でも、笑おうと思えば笑えます。それくらい、インパクトが大きかったんです。顔色を変えなかった主治医の方は、本当にすごいなと思いました。

 人が死ぬということは、哀しいことに違いはない思います。でも、哀しいだけではありません。人によっては束縛から逃れることができたり、問題が解決したりといったこともあるでしょう。

 ただ、どんなに望んだとしても、二度と祖母と会うことは出来ません。人が死ぬって、こういうことなんだな、と思いました。

 長ったらしい感想文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 葬儀などの際に思ったことを書き連ねる後編もありますので興味のある方は覗いてみて下さい。

 ではまた。

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